ゴール16「平和」 おじいさん、おばあさんから聞いた戦争の話

おjいいさん、おばあさんから聞いた戦争の話

終戦から76年が経ち、戦争体験者が年々減っています。戦争の怖さ、悲惨さ、辛さなどは、それを体験した人からしか学べません。
今、AI兵器なども配備され、人を殺すことへの痛みやためらいもなく殺戮が繰り広げられる時代になろうとしています。そんな時代だからこそ、戦争を体験した人の話から、命や平和について見つめ直すことが必要です。
ここで紹介する体験談は、今から22年前、社会科の授業「おじいさん、おばあさんから聞いた戦争の話」で語っていただいたものです。

語り①(Hさん)
1人より2人、2人より3人と真実を話した方がいいと思い、今日学校に来ました。
私は三富の出身です。昔は義務教育の6年が終わると、男は奉公、女は製糸工場へ働きに出ていました。
その後、甲種合格となり世田谷で訓練、そして輸送船に乗せられました。どこへ連れて行かれるかも分からなかったが(機密情報のため)、船の中で北支へ連れて行かれると分かりました。途中、戦場へ行くのが嫌で、船から飛び降り自殺する人もいたので、見張りもいました。
15年1月1日に着きましたが、その日に敵襲を受けました。銃撃で瓦がぱちぱちと落ちたり、木の枝がぱちぱち落ちてきました。大砲は使えない。隊長は「覚悟はいいか。お互いの心臓に刀を突きつけ自刃せよ」と言いました。しかし、来たばかりで一発も撃たずに、刺し違えないのは残念でならないと思ったところ、大砲の散弾で助かりました。敵兵で投降した人を公協軍といいます。しかし、その公協軍が裏切り大砲を奪いました。大砲を奪還に行ったところ仲間の5~6人が殺され、木につるされていました。
その他にもいろいろなことがありました。黄河の渡河作戦というのがありましたが、渡った先に敵兵がいて白兵戦になりました。まさに取っ組み合いの戦争です。戦死した人の耳や指を切り、名前を書いて持ってきました。
重症の少年兵を戸板に乗せました。しかし、血がドクドク流れていました。それを見て上官は「射殺せよ」と命令し、私が射殺しました。私はその少年を戸板の少年と言っていますが、戦後50年以上経った今でも、そのことが悔やまれてなりません。毎日、朝5分間の黙祷を捧げ、「戸板の少年よ許してくれ。あれは戦争だったんだ。許してくれ。」と祈りを捧げています。戦争はどれだけ嫌なものか、つらいものか・・・・・・・
また、馬で移動するのですが、ケガをした馬に劇薬を注射したり、ぬかるみにはまった馬を射殺もしました。馬も泣くんですよ。戦争だけは絶対にしてはいけない。
戦友会に行くと、「暁に祈る」という軍歌を歌います。そして、その前に一節口上を述べます。「戦争の愚かさ、悲惨さ知っているのは私たち、孫達が銃剣を持って戦うことがないように、赤紙1枚で何があっても行かねばならないあの戦争を二度と再び起こしてはならない・・・・・・・・・・・・・」
梅干し1個を3日も口に入れ、最後は中の白いところを食べて飢えをしのいだこともありました。
楽しかった記憶と言えば、谷を挟んで中国軍と日本軍が向かい合い銃撃するのですが、その間に清水があり、それを汲むときだけは停戦したことです。また、なつめという実をとるときも停戦し、それを煮てあんこにしてまんじゅうを食べました。
皆さん、みなさんは是非健康に留意して、勉強に励んでください。出会いを大切に、恩義を忘れないでください。
私の弟は、レイテ沖海戦で戦死しました。東京で会ったとき、私に時計をくれました。印鑑も渡したので、ああこれでもう最後だな思いました。弟の遺骨は写真1枚でした。母はそれを見て「遺骨が写真ということがあるか」と言いました。97歳で死ぬまで、おふくろは「息子は必ずどこかで生きている」と信じていました。
戦争は悲惨でむごいものです。絶対に起こしてはいけません。どうぞみなさんの手で平和を築いてください。

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