1945年8月15日で戦争は終わっていない

1945年8月15日に戦争は終わりました。しかし、終戦を知らずに、その後もジャングルで生活をしていた人もいます。横井庄一さんは戦後28年間グアム島で、また小野田寛郎さんは29年間フィリピンのルバング島のジャングルで生活をしていました。
私たちの身近にも、終戦をしらすにジャングルで生活をしている人がいました。

Aさんからの手紙

拝復
野山も若葉の季節となり農作業に追われるこの頃です。
M子さん、お手紙ありがとう。私はこの平和な日本に住む、あの55年前の、あの激しい闘いで生き残った、もうすぐ79歳になるお爺さんです。
M子さんのおじいさんのこともよく知っています。一緒に旅行に行ったこともあって、朗らかな良い人だったと今更のように惜しまれてなりません。
さて、戦争の話ですが、私も50年余りも経っているので、記憶をたどって書いていこうと思います。
昔は男の人は数え年21歳になると徴兵検査を受け、軍隊に入るのが義務でした。私も昭和15年(1940年)徴兵検査で甲種合格(当時甲種合格は大変名誉でした)となり、昭和16年2月1日、甲府の63部隊に入隊し1週間後東京の晴海から満州(今の中国)の神武屯というソ連(ロシア)の国境警備の部隊に配属になりました。そこは、黒竜江という河をはさんでウラガエチェンスクを目前に見えるところでした。冬は零下40度にもなる寒さ、夏は30度を超す暑さという厳しいところでした。軍隊生活も今の若い人達には耐えられないような厳しいものでしたが、私たちは国のため、家族のためにそれが当たり前のことと考えて頑張ってきました。規則正しい生活と何事にも耐えられる精神は80歳近くなった今でも持ち続けています。
昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリスと戦闘に入り太平洋戦争が開戦となりました。当時の私たちは、勝つものと信じていました。
昭和19年2月25日、私たちの部隊は満州を発ち、釜山で夏服を渡され、21隻の船団でグァム島へ向かいました。8千トンの船に8千人が乗っていました。その中には設営隊という15,6歳の少年達も乗っていました。グアム島は日本の占領下にあって大宮島といわれていました。その頃は日本は敗戦の色が濃くなっていまして、北のアッツ島が全滅していたことを私たち兵隊は何も知らされていません。敵の機雷攻撃などを受けながら、あえぎあえぎグアム島に着いたのは私たちが乗った船だけでした。
昭和16年12月10日に日本海軍が無血占領した大宮島です。米国は2年8ヶ月ぶりで奪還作戦を開始したのは昭和19年6月から約1ヶ月、島の形が変わるほどの砲爆撃をしてきました。7月21日、島の周囲は米軍の戦艦、艦艇輸送船で囲まれていました。グアム島は淡路島くらいの大きさです。本格的な上陸作戦が開始されましたが、1ヶ月余りの砲爆撃で日本は飛行機をはじめ重要な兵器は大半破壊されて、手も足も出ない状態でした。文字通りの白兵戦です。手榴弾を投げたり、銃剣で突いたりの闘いです。日本軍は米軍の兵器の前で1日だけで半分くらいは戦死しました。それでも日本軍は勇敢でしたから米軍にも大勢の戦死者が出ました。考えてみますと、米兵個人には何の恨みもありません。米兵にも親兄弟があるだろうし、日本兵も同じことです。戦争だから殺し合いをするのです。戦争は悲惨です。まして負け戦はなおのことです。負傷した戦友を連れて撤退するのですが、その人達は「俺をおいていけ」と言うのです。小さい声で話をするのですが、米軍の音波探知機は性能が良くてすぐ弾が飛んでいます。仕方なく物陰に潜むとドカンと大きな音がします。自傷兵が足手まといになるからと手榴弾で自決するのです。7月25日、私も最後の作戦でマンガン山の夜襲攻撃に出ましたが、白兵戦ではなく、こちらがやられるばかりです。夜が明ける頃には、気がつくと、まわりはああ日本軍の戦死者ばかりでした。私は数少ない生き残りの一人です。私の隊の馬場という若い隊長は、自分から敵の戦車に飛びついて自爆して戦死しました。「日本軍がきっと助けに来るから死んではならない」と言い残して・・・・・・・私も、ここが死に場所かと心に誓ったのです。
この戦闘の後、生き残った人達は友軍のくるのを信じてジャングル内の持久戦に入ったのです。然し、米軍の掃討は熾烈なもので、一人減り二人減りして、私は最後には一人でジャングルに潜んでいました。食べる物はトカゲでも蛙でも、口に入るものは何でも食べました。人間の食べ物に一番近いのものは島民が作っていた南瓜が野生化してジャングル内にありました。その葉を食べました。今食べるように言われても、とても口には入れません。鉄兜で海水を汲んできて塩をとりました。塩分がないと人はふらついて歩くことができません。この時、初めて知りました。火をたくのは月夜の晩に焚くのです。煙が敵に分からないためです。
戦友の中には頭がおかしくなる人もあります。前に「聞けわだつみの声」という映画を見ましたが、あの通りです。「おい演習は終わったぞ」と言いながらジャングルを出て帰ってこない人もいました。もちろんやられてしまったのです。
私も戦争が終わったのを信じないままに、ジャングル生活を2年やっていました。戦争の話は尽きることがありません。無事に帰れたことが不思議なくらいです。グアム島には2万人以上の人がいましたが、陸軍軍人と邦人達で生き残ったのは200人くらいだといいます。
昨年9月、私はグアム島慰霊巡拝に行ってきました。56年目の法事です。各戦績を回り戦死した戦友に黙祷を捧げ、ジーゴ霊苑という寺で日本軍、米軍の慰霊祭を行ったのです。東京の護国寺の僧正外11人が読経してくれました。
現在のグアム島はビルが建ち並び、ジャングルは切り拓かれて公園のようでした。日本の若者達が観光に来ていまして、日本の海辺にいるようでした。
この平和な世の中は「お国のため」と信じて散った元兵士達の犠牲の上にあるのです。戦争の悲惨さはとても言葉では言いあらわせません。私は二度と戦争がないことを心から望んでいます。私たちの子どもたちにあの思いはさせたくはありません。
今、ユーゴをはじめ世界のどこかで戦争をしているところがあります。戦争が軍人ばかりでなく一般の人達も犠牲が出ます。戦争をしないで何か解決でいる方法はないものかと毎日新聞を見て思っているこの頃です。ちなみにアメリカはグァム島を「太平洋戦争歴史の証人だ」と言っています。
尚、私は帰国したとき、自分の墓がありました。戦死の公報が入り、村葬を含め、葬式を3回もしたそうです。墓標を自分で抜いてきて箸を作り、皆に配ったことを付け加えておきます。
M子さん、ながながと戦争の話を書いてきましたが、おわりになりましたが、きっと想像もつかないことと思いますが、戦争をしない国の日本に生まれたことを喜んでください。